杉田 欣二先生『干支(かんし、えと)の話』

01.28

剪紙(馬)
 中国の周辺諸国は近代以降、諸制度を西欧化し、暦(こよみ)についてもグレゴリオ暦に変えました。しかし、今でも日本や韓国、ベトナムなどはまだ旧暦(中国語では農暦)の影響を色濃く残しています。干支もそのひとつです。
 中国では古代から時間や方角を十干と十二支を組み合わせた干支で表してきました。十干というのは甲乙丙丁戊己庚申壬癸の10を、十二支のほうは子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の12をいいます。この十干と十二支の組み合わせが1番目の甲子から60番目の癸亥まで60通りあり、年でいうと60年でまたもとの暦に還ることから60歳を還暦といいます。
 中国では甲午戦争(日清戦争のこと、1894年)の後、光緒帝が推進し失敗に終わった戊戌の変法(1898年)があり、その後の辛亥革命(1911年)へと進んでいきます。いっぽう、古代日本史では中大兄皇子らが蘇我氏を滅ぼした乙巳の変(645年)があり、後に天皇家の皇位継承を巡る壬申の乱(672年)へと続きます。昨年のNHKの大河ドラマ「八重の桜」で八重たち会津の人々が官軍と戦ったのは戊辰戦争(1868年)でした。近いところでは、甲子園球場は1924年の甲子の年に完成したため、このように名付けられました。
 今年はうま年ですが、より正確には甲午(きのえうま)です。なお、丙午(ひのえうま)は五行説で「火」の勢いが最も強くなることから、日本ではこの年に生まれた女性は気性が荒く夫の命を縮めるので嫁の貰い手がないなどという迷信があります。実際、一番最近の丙午となった1966年は前年より出生率が25%も低くなっています。次の丙午はそれから60年後の2026年、はたしてそのときでもまだこのような迷信は残っているのでしょうか。

2014年1月28日

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